空飛びラボ日記 Ver.2

研究する人生

読了 [屍鬼]

屍鬼〈1〉 (新潮文庫)

屍鬼〈1〉 (新潮文庫)

これも、先の封神演義藤崎竜さんが漫画化してますが、私が読んだのは小説の方。
中盤過ぎたら止まりません、とレビューにありましたが、私もほぼ丸一日かけて5巻まで読んでしまいました。

テンションが上がる面白さ(怖さ)だったのか?と言うと悩ましいですが(最近あんまり怖いとか感じなくなってしまって。。。感性が鈍っている??)、とにかく騒動の決着を知りたくて一気読みしました。


とある山奥の比較的外部から隔絶した村で、ある夏怪奇な事件が起き、瞬く間に村を浸食していきます。
それは「起き上がり」と言って、甦った死者であり、吸血鬼のようなものの誕生なのです。

起き上がりの存在は最初村人の目にはつかず、とにかく死者が続くということから、村に一人だけの医者が伝染病を疑って調べ、対策を打とうとする。この過程は理系として相通ずるものがありました。
そして、非合理だと思いながらも起き上がりの存在に気がついていく住民たちと、増えて村を乗っ取ろうとする起き上がりたちとの対決へと終盤、なだれ込んでいきます。


レビューに多かったのは、起き上がりは当然人を食料として襲うわけですが、その起き上がりよりも起き上がりを惨殺する「普通の」人たちの方が鬼のようだったというものでした。
でもどうかな。私ならどうするかなと思いながら読みましたけど、私なら起き上がりを襲うことに迷いはないでしょうね。共存はあり得ない、相手を殺さないと自分がやられるというなら、起き上がりが「元家族」であっても躊躇しないんじゃないかというのが直感的な判断でした。



ライオンに襲われたら、、、まぁ、逃げるけど、逃げてもどうしようもないとなれば、殺るしかない。自分が生きるためにはね。
そこに悩みはないなとあっさり思えた自分は、結構シンプルに生きているなと思ったのでした。
作中の人物や、読者の中には起き上がりの気持ちや生きる権利、みたいなものを考え込んでしまう人もいましたからね。



少し話を変えて、スティーブンキングの小説に「ペット・セメタリー」というのがあります。
これはアメリカンインディアンの生地に死者を埋めると甦ってくると言う伝承があり、実際に交通事故にあった飼い猫を埋めたら生き返って戻ってきたので、同様に交通事故で死んだ息子を埋めてしまうと言う話なんです。でも、そこに埋めるのは禁忌で、それはなぜかというと甦った死者は見てくれは同じでも別物だからなんですね。殺戮する生き物になってしまっている。実際、最初に埋めた猫も戻ってきたら非常に凶暴になっていて飼い主を襲おうとしたりするのですが、主人公は息子を亡くした悲しさには耐えきれずに埋めてしまい、惨劇が始まるという内容です。


で、例えば私の大切なさつきが凶暴になって(今も凶暴ですがw)甦ってきたとして、自分はどうするのか?と言えばやはり感情を切り替えて戦うだろうと思うんです。
殺す前に「これはさっちゃんなのに><」とか苦悩しないような気がします。むしろ、さつきが私の知っているさつきであり得なくなってしまったことに怒りを覚えて、それが行動を後押しするような気がします。

相手が自分の許容し得ない形に変容したことを許せないと思うのは支配的な側面があるからなのかも知れません。とはいえ、それはその変容が自分に危害を及ぼす方向に、だったからであって、そうでなければ悲しみこそすれ、攻撃などせずに黙って離れるだけでしょう。
作中の医師も迷い無く屍鬼と戦いますが、最後にぽつりと「やはり自分は自分の思うようにしたかっただけなのか。。。」とつぶやくシーンがあります。でも、彼に支配的な面があったにせよ、命が脅かされたから行動したのであって、起き上がりがもし草食だったのなら何人起き上がってこようとも放っておいたのでは?少なくとも根絶やしにしようなどとはしなかったのでは?と思うのです。

結局、生きると言うことは死にものぐるいの戦いであるというのは間違いのない真実の一つでしょう。
生きるために自分の命を必要とする相手の生きる権利を容認することと、自分が生き延びることは決して同時には成り立たない、と思うのですが、いかが?