空飛びラボ日記 Ver.2

研究する人生

わたしはどこにもいません

P.ドラッカーが著書の中で書いている有名な言葉に「死んだ後、どういうイメージで自分を記憶してもらいたいか、を考えることから人生における優先順位を決めたり生き方を決めたりするとよい」というものがある(うろ覚えなので不正確です)。

それで、折に触れて考えているのだけれど、、、、私の答えはどうしてもここに行き着いてしまう。


「仕事そのものと仕事を通じての言葉や態度が仕事を通じて関わった人の中に残るのは良いけれど、プライベートを含めた人となりが誰かの記憶に残るのは望まない」


仕事が残せるかどうか、仕事を通じて誰かに影響を与えられるかどうかは、まだ頑張りが足りないので可能かどうかは未確定だけど、基本的には「何をもって覚えていて欲しいか?」と聞かれたら「覚えていて欲しくない」が答えなのだ。

最期に関しても「そういえば知らないうちに消えていた」というのがベストだしかなり強い望みで、葬式や火葬なんかまっぴらごめんなのである。
21世紀先進国でそういう最期を迎えることが出来るかどうか。難しいことなのかも知れないので、今から真剣に考えている。


忽然と消えて、デジタルデータとしての仕事だけがぽつんと残るのが理想です。

そんなのは人間の生き方としてダメだとドラッカーは言うかも知れないけど、その相当な不完全さこそが私なんだろうと思う。


追記

一緒に暮らしてきた、暮らしている動物たちの記憶に残りたいかと言えば、それはもう!非常に残りたいんですよね。
彼らは私より寿命が短いけど、、、野良猫とか、ベランダに来る雀などに「こんなニンゲンがいたんだよ」と語り継いで貰えたら、ということを想像すると非常に幸せな気持ちになる。

「色々考えて良くして貰った。幸せだった」と言われれば最高だけど、「ヘンなヤツだったよ 笑」といううのでもいい。「不自由もあったけど、あのひとと暮らした時間はけっこう楽しかった」と思って貰えれば幸せだなぁと思う。


なので、別に人間関係が上手くないから、などではなく、仲の良い特定個人だっているけれど、やはりニンゲンの中にいること、ニンゲンであることは私にとっては違和感が大きいのだと思う。