空飛びラボ日記 Ver.2

研究する人生

自宅就業 三日目(2020.4.15)

昨日の夕方、美容院に行ってきた(業務終了後です)。

美容師さんと「今の状況はどうも釈然としない」「確かに新しいウイルスではあるけど結局のところ風邪だし」という話をしたら、別のお客さんで医師の人も全く同じことを言っていたとのこと。
やはり、と思う。


自分の周囲では、獣医師・医師・看護師・臨床検査技師などはちょっと感染力が強い風邪、という考えの人が多いように思う。薬剤師は不明。
同じ理系、生物系でもそれ以外は過敏になっている印象。
感染症に対する捉え方が根本的に異なるのだろうか?
それと、死に対する捉え方も違うのかもしれない。
というのは、この感染症はたしかにまだはっきりしない理由で重症化のリスクがある。が、割とどんな病気にも個体差で症状が重く出てしまう人はいる。

なので初めから、「まぁ病気ってそんなもんだよね」「手を尽くしても死ぬときは死ぬ」という感覚はデフォルトで持っているように思う。


で、この感染症が流行し始めたときから「騒ぎすぎるな」「重症者のみ治療を」と言っていた人は少ないのだけれど、かき消されてしまった。
今は表だっては言いづらい状況と言っても良い。

なぜか。
なぜ人々はより社会が混乱する状況を選ぼうとするのか。

結局人は見たいものだけを見て、聞きたい言葉だけを聞くという考え方に則ると、多くの人は表面的には不安や恐怖からの回避を願っているけれども、深層では自分のいる現実の崩壊を願っているのではないか。
それはやはり、今幸せではないという人が多いからではないか、と思えてならない。



こういうことを言うと、重症化リスクがないからそんなのんきなことを言えるんだろ!と文句を言われそうだけど、私は毎日ステロイド吸入と投薬を欠かせないくらいには重い喘息患者で、感染したならばハイリスクに分類されるのである。
自分のそういった状況も踏まえた上で、これはただの新しいウイルスによる風邪であり、自分に対してのリスクはインフルエンザその他と大きく違わないと考える。


うちのトトが慢性腎疾患であることが分かり、瀕死の状態からの点滴生活なのだが、食欲も戻り活動的にもなり一見元気。
しかし、壊れた腎臓の構造は絶対に戻ることはないから、緩やかに状態は悪化していることに変わりは無いのだ。
慢性腎疾患が判明した時点で、持ち直したとしても余命1,2年、5年生きたら奇跡的と受け止めている。
私が願うことは、治癒ではなく、できるだけ長く一緒に居たいと言うことと、苦しまずに最期を迎えて欲しいと言うことだけだ。


けれどもここで、「健康体に戻る」ということを本気で望む人がいて、そのような人は少なくない。
医学的に考えれば健康体には戻らない。
それは、事実でる。事実はどこまで行っても単なる事実で、悲劇とは違うと思うのだけど。

私が、健康な状態には戻らないし1,2年持てばいい方かも知れないと言うと「そんな冷たいこと!良くなるかも知れないじゃない。良くなると良いね」と返す人々がいる。
今、過剰に恐れ騒いでいる人たちと重なるように思う。


ちなみ私が上司(獣医師)と交わした会話は以下である。
「慢性腎不全で自宅点滴生活となりました」
「そうか。うちのも同じでオレが毎日点滴したよ。一年くらいかな。だんだん貧血も出てきてね」
「ですよね。まぁそうなりますね」

でも、私も上司も別れが平気なわけでも、愛がないわけでもない。
生きていればいつかは死ぬ、ただそれを受け入れているだけだ、と思う。