空飛びラボ日記 Ver.2

研究する人生

個々の倫理観

いつの時代も「暴露」ということに対して一定の需要はある。
人は他人の秘密をのぞき見したいという欲求を持つ。

のぞき見を実際にするかどうかは、そういう欲求を否・恥として捉えるのか、是とするのかにより異なるのだろうが、「他人の秘密」と聞いても全く心を動かされない人を除けば、大抵はそのような欲求はあるかと思う。


週刊誌・写真週刊誌はその欲求を満たすべく発展してきたものだろう。
ただこれらは、そのソースが持ち込まれたものであるにせよ、取材によるものにせよ、まだ「代理人(編集者・出版社)による暴露」だった。
代理人を通じてである以上、代理人の価値観によるフィルターがかかる。
場合によっては「暴露しない」という選択肢もあるだろう。


当事者による暴露は、当事者が言いたいことを全部表に出せるが、はたしてこれは良いことだろうか?
巨悪と戦う個人にとっては大きな武器になるかも知れない。
しかし、冷静な第三者の視点を無くすと言うことは恐ろしいことでもある。


現代は、個人が暴露ツールを手に入れてしまった。
勘違いだろうが誤解だろうが、自分は被害者だと思えれば、加害者の所業は何でも暴露できる。
世界中の人に無料で発信できる。

そこには、さすがにこれは嘘かも知れない、誤解があるかも知れない、だから裏取りしてから表に出そう、とやってくれる第三者は不在である。
真実かも知れないがそのまま暴露したのでは新たな被害者を生む、ということに気がついて止めてくれる人もいない。

ブレーキは個々の精神に、倫理観に依存しているのである。
世に放った秘密は回収不能で、射った矢が巡り巡って自分を射貫くこともあるだろうが、その時後悔してもどうしようも無いのである。
難しい時代になったと思う半面、昔から言われていることを心にとめておけば良いだけだ、という気もする。

すなわち、自分がされて嫌なことは他人にしない、ということだ。
しかしほんと、他人の良くない所業ばかりを口に乗せるって楽しくないでしょうに。
もしかしたらその瞬間は楽しいと感じるのかも知れないけど、少なくとも幸せは感じないだろうな。

生きるのが大変な世の中だけど、幸福に生きることは出来ると思いますがね。


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命の火が種火からとろ火、くらいになりだいぶ回復してきました。

眠いだけよ

食事の際に、フードをお皿に入れて置くのが普通だと思いますし、我が家もそうです。
元気な子はそれで問題なく食べてくれます。

気持ちが弱ると、それで少しは食べますが続かない。
そこで諦めてしまう飼い主さんも実際多いのですが、付き添って時間をかけて励ましてあげると食べたりする。
我が家では、膝に載せて頭や身体を撫でながら声をかけてあげること30分から1時間。それで膝に載せたままフードのお皿を顔の前に持っていくと完食してくれることが多いです。
甘えてるだけ?

確かにそうかも知れません。
でも、弱っている時って甘えたいですよね?
多分、老人、小さな子供または病人でも同じではないでしょうか?
触れて温もりを感じさせる、声かけで安心させる、そうしたら気分が良くなってちょっと食べてみようかなと思う。

それを続けています。