空飛びラボ日記 Ver.2

研究する人生

今、ここに、いる

早いものでもう12月。

ずいぶん更新をサボっているので、スターをつけてくれる人も滅多にいないのだけど、今朝珍しくスターレポートが来ていたのでリンクに飛んでみたらはてなブックマークについたものだった。

というかここのところ、何人か続けて私のはてブにスターをつけてくれているようだ。


しかし、はてブ自体もう7,8年使用していない状況で、見返すこともなかったので、過去の自分は何に引っかかりを覚えて、それに対して何をコメントしたのかも覚えていない。
そこで少し見返してみた。


素直な感想は、過去の自分は今よりも自分自身を成長させることに真剣で何か焦りも感じられた。そしてこれは自画自賛ではないけど、距離を置いて眺めた自分の姿は普段考えているよりもずっと知的な人だなという2点。


自分を成長させることに躍起になっていたのは、年齢の割には微妙に結果を出せていない焦りがあったから当然かなと思う。
まぁ、ブックマークなんかしていないで目の前の課題をこなした方が良かったことは言うまでもない。
でもそれができない自分だったからこそ何かしらの方法論のようなものを必死で探していたのだろう。
こういうときつくづくタイムマシンがあったらなぁと思う。
過去の自分にはアドバイスしたいことが山のようにある。


今の自分も当時とは大して変わらず、これと言った結果も出せていないように感じているし、社会的な身分は中途半端で不安定。
ただ当時とは変わったところもいくつかあって、まず、何かしらの方法やアドバイスを見つけなくても、自分という人間は自分を成長させることに手を抜かないタイプで、どんなことからでもヒントを見つけ出して進んでいくから淡々とやれば良いと今は思っていること。
多分、ブックマークしていた頃から今までの数年間を経て、自分自身への信頼は深まったということなのだろう。
また、何がしかの結果を求めていたことに関しては、おそらく自分が納得のいく結果というものはいつまでも手に入らず、振り返った時に積み重ねこそが結果として認識されるのだろうという風に捉え方が変化した。
だから今は、真面目にやってはいるがガツガツしていない、、、、、、と、自分では思っている 笑。



客観的に眺めたとき、自分は案外知的だというのは嬉しい発見であった。
私の社会的な立場や経歴だけ見れば「堅い」とか「知的」というキーワードが並ぶと思うが、自分がいつも認識しているリアルな自分は「堅くて知的な」集団の中にあって、やや「不真面目」で「軽い」、「ちょっとバカかもしれない」と言った感じで浮いている(目立っているともいう)。
リアルタイムでは知的要素が欠けているのではないか?そしてそれは本意ではない、と思う時がしばしばあるので、客観的に眺めると自分が感じているよりも知的さが見えているというのは、ちょっとした安心感があった。




はてブの話に戻ろう。

ブックマークのほとんどは、当時気に入って読んでいた「レジデント初期研修用資料」というブログ記事(当該ブログは今はなく、「レジデント〜」は抜粋されて書籍化されたらしい)がメインだけど、中には違うものもあった。

特にハッとしたのは2011年4月に震災被害について書かれたブログをブックマークしていたことで、そのブログ記事の最終パラグラフに共感したとコメントがつけてある。
正直、レジデント初期研修資料の方は読み漁っていた記憶が強くあるのだけど、震災被災への言及には全く覚えがない。


そして、普段全く同じことを考えているとコメントした最終パラグラフについても、当時から自分はこんなことを考えていたのだろうかと首を捻る内容で、とても不思議だった。


というのも、数年の時を経た まさに今、私はそのようなことをあれこれ考えながら震災関連研究に従事しているからである。
そして、震災関連研究というのは私が自発的に目指した結果としてやることになったわけではなく、幾つもの偶然を経てたどり着いたものだからである。


2011年の自分の関心が無意識となって、今の場所に自分を連れてきたのだろうか?
そんな風に感じてしまった。


人生とは、本当に奇妙なものだ。



最後に、当時の私がよく同じことを考えているとコメントした最終パラグラフを引用しておきたい。

ムラーは「今この世界を生きているあなたのためのサイエンス」で、チュルノブイリでの健康被害放射線による直接の被害によるものよりも、住み慣れた土地から強制的に避難させられたことによるストレスから酒やたばこを濫用するようになったことのほうが大きいかもしれないと述べている。放射線被曝による将来の発癌リスクの増加ということはまだしも定量ができないことはないものかもしれない。しかし故郷を離れたことによるストレスが健康におよぼす被害は事後的にはある程度のことがいえるかもしれないが、事前には何もいえないはずである。もしも事態がある程度定常的になった時に、自分は10%の発癌率の向上は甘受するから、今まで住み慣れた場所でこれからも暮らしたいというひとがでてきた場合にどうしたらいいのだろうか? そしてムラーのいうことが正しいとすれば、そういうひとの方が長生きするかもしれないことになる。医療の世界では自己決定権の尊重がトレンドである。リビング・ウイルということもある。このまま今の土地に住み続けることが自分らしく生きることである。自分はそれを選択するというひとがでてきたら行政はどのように対応するのだろうか?

(18)2011・4・16「悲観論」 - jmiyazaの日記(日々平安録2)