空飛びラボ日記 Ver.2

研究する人生

安心が欲しいのか不安が欲しいのか

原発に関することなんですが。
時々読んでいるブログ主さんが


専門家は最小の可能性も含めて大袈裟に注意喚起して欲しい。後で何も起こらなかったね、良かったね、で済むのだから。



といったことを書いていて、感覚として分からなくはないけどそれってどうなんだ、安易なんじゃないか?そもそもそういう情報発信をするのは専門家とは言わないだろう、とか色々考えてしまいまして、今も考えています。


騒ぎが起きている時は特にですが日常であっても、不安を欲する心理って多かれ少なかれ誰の心にもあるように思うんです。だから似非科学が無くならないし、壷が売れるんです。真剣に「アメリカでは臓器移植のために既にクローン人間がどんどん作られてるんだよね?(質問でなく確認なのが恐ろしい)」と真面目に聞いてくるヒトが絶えないんです。

心理学的なことは分からないけれど、非日常状態に興奮したがっているというのかな。したがるといっても感情的に喜んでいるのとは違いますよ、念のため。
そういう私も科学者の端くれですけど、自分の中にもありますからね。。。こういった時は特に思考にバイアスがかからないように非常に注意していますが。

だから、大袈裟に注意喚起した方が「ウケる」ことも多いんですよ。それは期待と報償(答え)のバランスが釣り合っているからじゃないかと思います。



しかし科学的真実は大抵の場合期待(悪い予想)しているよりは地味で、「だから安心ですよ」ということも多いのだけど、、、、既に非日常状態の中にいる場合、予想が過剰になってしまっている。だから正しい答えを与えられてもなにやら物足りなく感じて、ウソっぽく聞こえてしまうんじゃないかな。



じゃあ、だからといって期待通りに大袈裟な答えをすることがいいのか。


私にはその是非は分かりません。
ただ、少なくとも専門家の仕事じゃないと思います。

個人的には、自分の興奮状態から来る過剰な心配と釣り合った答えを欲するヒトが多い社会は未熟だと思います。ある意味期待はずれだったとしても、地味な真実を受け入れて己の興奮を冷ます、そういうことが出来るヒトが増えて欲しいですね。自分への戒めも含みますよ。

大体、悪い予想を満足させるために大袈裟に不安要因を出したとしたらどうなりますか。その瞬間は「あーーー、やっぱり!」と気持ちは落ち着くかも知れませんが、直後から新たな興奮状態が始まりますよね。増幅された不安心理はそのヒトを行動させるかも知れません。買い占め、出し抜き等々。結果、本当に必要なヒトが困ることになるでしょうね。



なんていうか、、、脳はある意味バカですから。
出来事が仮に悲劇であっても本当の当事者(今回の場合は被災している方々)でなければ無責任に興奮するし、興奮すれば麻薬に似た分子が出てしまう。そうすると、その状態を無意識に欲してしまうんじゃないですか。酔ってるっていうかね。
それがパニックを生むし、風評被害を生む。似非科学の土壌になる。

やっぱり勉強って大事。理科大事です。体の仕組み、必要な栄養素と代謝、簡単な化学反応、放射線について、気候のメカニズム、、、、、ほとんどのヒトは高校までに教えてもらっているはずです。ちゃんと理解して記憶していれば、放射線被害について自分である程度正確な判断は出来るはずです。
こういう時に活かせてこその勉強ですよ。受験のために勉強するんじゃないんですよ、ホント。