空飛びラボ日記 Ver.2

研究する人生

坂本龍一さんのこと

年度末、大学は何かと忙しくブログも滞りがちでした。
新年度が始まり、さて何か書こうかとiPadsafariを開いた途端に飛び込んできた悲報がありました。
そのタイミングの良さは何か、虫が知らせたようでした。


その瞬間、思考が止まってしまい、とにかく翌日の仕事に穴を開けてはいけないと、ただそのことだけ考えて布団に潜り込んでしまいました。
泣くこともせず。


それから一週間、仕事には行きましたが黒い服を着て過ごしましました。
ネットニュースの記事はなるべく読まないようにしました。
私にとってはただ好きなアーティストが亡くなった以上の出来事だったので、騒ぎ立てるニュースなどむしろ排除したかったのです。


音楽は少しだけ聴いていました。
でも懐かしいとかそういう気持ちはなく、ただ仕事をこなすことが精一杯で、他のことはよく覚えていません。
黒い服を脱いでから、不思議と坂本さんの音楽が聴けなくなりました。
すごく聴きたいと思うのに、聴くのが怖かった。
それで高橋幸宏さんとか細野晴臣さんとかを聴いて気持ちを落ち着けていました。


その頃、心配してメールをくれた友達がいて、その文面を何度も読んでいるうちに強張っていた心が少しほぐれ、初めてちゃんと泣きました。
親も兄弟も、親友と言っても良い大学院時代の友達も、唯一付き合いのある元彼も、私が坂本さんのことを大好きなことは知っているはずなのに、心配してくれたのはそのネットを通じて仲良くなった友達だけでした。

結局、私にとっての坂本さんの存在の大きさなんてほとんど誰にも伝わっていなかったのだなぁとため息が出ました。



私は、言葉を発するのが遅く、感情を表に出すこともあまりなく、他者とのココミュニケーションが取れない子供で、今から思えばどういうカテゴリーかは分かりませんが、何かしらの発達障害ではなかったかと思います。

今日、J-WAVEの特番を聴きながら色々考えていたのですが、土の中でなかなか発芽しない種、あんな感じだったなと。

もちろん子供はみんな最初は種なのだろうと思いますが、多くは身近な環境によって発芽するのかな?と。
また、種の硬さもそれぞれ異なることでしょう。


あまり親のことは悪く言いたくありませんが、私の両親は割と若くして親になったので精神的に幼く、おそらく硬い殻に覆われた私との相性はあまり良くなかった。
肉体的に育ててくれはしましたが、感情を表に出さない私のことは「暗い」「引っ込み思案」ということだけで終わりにしていました。
内面を育てるためには何か特別なものが必要なのかもしれない、とは考えなかったし、その余裕もなかったのでしょう。


そんな私ですが、小学5年生頃でしょうか。
夏休みに訪れた従姉妹の家でY.M.O.の音楽と出逢います。
衝撃でした。従姉妹が呆れるほどせがんでリピートしてもらったことを覚えています。

ついに殻にヒビが入った瞬間です。


そこから精神的に目覚ましい成長をしていきました。
最初は音楽を通して。それから雑誌やラジオで坂本さんが話した内容を咀嚼して咀嚼して咀嚼して。
わからない言葉は辞書で調べ、さっぱり分からないながら対談相手の本を読み、新しい音楽を聴き、手当たり次第に何でも飲み込んでいました。


特に高校生になるまでは、興味の対象が自分の年齢層が属する文化とは違っていたので、友達はほとんどできなかったですが全然寂しくなかった。


あれがなかったら、今の自分は存在しません。



そんな日々が23、4歳くらいまで続いたでしょうか。



その頃、自身の大学生活が忙しさを増し、恋人ができて私生活も華やかになり、坂本さんも渡米し、ちょっと距離ができました。
でも、どんなに離れていても、音楽を聴かなくなっても、私には唯一無二の人だという思いは変わりませんでした。




2000年代に入り大学院に進学した頃、iTuneというものが生活に入り込んできました。
それを契機に、また坂本さんの音楽にどっぷり浸かる日々が始まりました。
でももう、その頃には私はすっかり行動的な人間になっていて、自分で自分に水をやったり肥料をやったり剪定したりしながら生きる術を身につけつつあり、坂本さんの音楽や言葉が何か大きな力を持つ、という風ではなかったように思います。


でもね、でも、
自分の中にはずっと、言葉を持たなくて、笑うこともできなくて、怒られても泣くこともできなくて、何かやりたいこととか好きなことはあるはずなのにそれがよく分からなくて、暗闇の中でぼーっとしていた幼い自分のかけらが残っているんですよね。


そのかけらは、世界の扉が開いた瞬間を忘れることは絶対に無いでしょう。



ファンだったけど、なんか、神様みたいな存在だったのだと思います。